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山麓雑記 | ||
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十日町の夜
十日町の夜
十日町のN家といえば何代か続いた旧家であり、名望家として知られた家である。当時は松本から長野を経て豊野に出る、そこから飯山線に乗り換えると十日町まではまったくうんざりするほどの汽車の旅になってしまうのである。もっとも、今こそ急行はあっても、当時は人間より貨物の方が優先する線のこととて一駅平均は十分位づつ停車して行くローカル線である。どちらかといえば気の短い信州人の自分はイライラした揚句、ふてくされて、空いた座席にいぎたなく寝そべって往生をきめたが考えるともなく、これから訪問するN家のことを考えてみた。
こんな時代的にスピード感覚のずれたような、取り残されたような田舎に居をかまえながら、信州全体の繊維屋さんでこのN商店と直接取引できる店は一軒もないのである。これは自分の生家が呉服屋であるからよくわかるのである。
代々にわたって積重ねられてきた伝統の蓄積がただ単に企業とか経済ばかりではなく、凡ゆる面に浸みわたっているようである。そこには普通考えられる合理主義ではきまりをつけきれない広い有機性と簡単には動かせない確固とした基盤が感じられるのである。そんなことを考えていると次第にこの地方の環境と雰囲気迄が重要な問題となってきて、これに退屈させられている自分等が遠かに貧弱な存在に感じられ始めてくるのである。
駅ではすでに出迎えの人が待っていてくれて、早速営業所の方に案内された。先着していた富山のY氏と主人公のN氏はすでに仕事の相談を進められており、遅ればせに私がそれに加わったのである。
N氏の商売上の中心はこの十日町にあるが本拠はそれからなお入った小千谷に代々の店と住宅を持たれているので、この十日町の営業所は通いの社員達と夜を守る僅かの店員達が残るばかりである。そしてY氏と私とはその夜この営業所の客間に厄介になる約束であった。
夕食は近所にあるN商店行きつけの料理店で済ませ、あとは引き続いて仕事の方の相談が続行された。社員や店員は皆引取るものは各々自宅に引き取ったのであろう。まったく物音一つない静かなN家の客間で我々だけの話し合いや計画が続けられたが、夜をあづかる店員が何名いるのか、これだけの大きな店であってみれば掃除だけでも何人かの人達の手を要するであろうと想像されるが、その一人さえいないような静けさであった。
やがて、概要の相談もきまってN氏は小千谷の方の自宅へ帰られたが、私とY氏とはなおいろいろの打合せや雑談で時を過していった。
その時、一人の女店員が部屋を訪れて入浴をすすめにきたが、我々は寝る前に入浴させて戴きたいので、遠慮なく店の人々に先に入っていただくようにいって、なお、雑談に夜のふけるのを忘れていたのである。時間も思いのほか移ったので、部屋を取り散らかしたまま我々が入浴のため立上ったのはすでに十時半を過ぎた頃と記憶している。
さて、脱衣室で乱雑に着物をぬぎ捨てて、用意されたタオルを片手に湯殿に入って見ると簑の子が全然濡れていないのを発見した。そうかといって乾いたはずもない。誰も我々に遠慮して入浴していないのである。これには二人とも大いに恐縮して、湯船の蓋をとり去って湯加減をみると、少し水を入れれば丁度の温度位に湯の温度が保たれている。客の入るのを待りて常に意をくばっていることがわかるのである。
入浴を済まして脱衣室に戻ってみると、いつの間にやら、我々の下着と丹前だけがあって、ぬぎ散らしたワイシャツも、洋服も見当らない。下着を着て、丹前を着てみると背中から、ずっと気持のよい温かさが感じられてきて、直ぐに丹前が炬燵で温められてあったことを知ったのである。
たんと我々は身勝手に、心なきまま時を過ごしたか、いつ終るかも知れない我々の放談を待ちつつ、遅くまで入浴はもちろん、休みもせず、ひそやかに控えていてくれた人達の好意が身に浸み入るような気持で、もとの部屋に帰った。
部屋はきれいに掃除されて、我々のための寝具が整えられ、我々の洋服はきちんと衣桁にかけられ、書散らした書類も一束に机の上に整理され、炭はつぎ足され、灰が美しくかき直されて、鉄瓶からは湯気が微かに立ちのぼっていた。
我々は黙って寝床に入った。紬地(木綿とみえる)のなんという肌ざわりのいい、身体に吸いつくような重さと軽さ、どんな綿の入れ方であろう。寝具というもののもつ用途と有機性をここまで私に感じさせる伝統に包まれてもっとも快的な眠りに誘い込まれていったのである。
朝食は営業所のこと故、何の御馳走の用意もありませんとはいわれたが、なんでもない普通の朝食ながら、さわやかな朝の光の中で、香んばしい味噌汁の中の豆腐やら、煮付や漬物とおいしいお茶。なんともいうことのない感謝と気品に溢れたサービスに、旅館営業には近頃みることのできないような喜びに浸りつつ、その日の仕事の中に入ることができたのである。
理屈のない、淡白さのなかにしみじみとした生活の美しさ。経験の積み重ね、奉仕と感謝、ここにも立派な民芸の美があった。